ゆだねて生きる―少数派の焦りを去れ!

2005073101
  • 2010年4月13日(火) 10:58 JST
  • 投稿者:
    三浦三千春
  • 閲覧件数
    294

ゆだねて生きる 
7月31日(聖霊降臨後11)
マタイ13:24~35

<子供のためのお話しが冒頭に入ってます>


 イエス様って、焦りを感じることはなかったのでしょうか?――私はよく、そう考えます。しかし、聖書を読んでいると
 いつも泰然自若としてらっしゃる。走らないと間に合わない!とばかりにバタバタしているイエス様を想像できません。その
 秘訣、いや秘訣以上のものに倣(なら)わせていただきたいと切に願います。



 今朝お読みした個所は、イエス様やその弟子らが、自分の使命を真剣に考えると焦りを感じる場面のことを言っています。
 1つは、自分たちの勢力はあまりに小さい、と感じさせられること(31節)。
 からし種の小ささは、直径1㍉。文字通り、吹けば飛ぶようです。天の国を、そのからし種に喩えている。
 聖書で、天の国は、神の国、とほぼ同じ。聖書の民が、神の名を口にするのをはばかることから来た言い換えです。創造主のご支配の及ぶ領域のことです。
 イエス様は、神の国の福音を宣べ伝えている。それは、非常に値打ちのあるものではある。しかし、当時の現実を見ると、
 イエス様の教えを受け入れる人々は少数に過ぎず、影響力は僅かです。地域的に見ても、四国より僅かに広いパレスチナのみが、その勢力範囲。
 手塩にかけ得る中核的な弟子は、たったの12人。しかも後日、十字架の時に露呈するように、弱いずるい者たち。しかし、
 イエス様の視野、目標は、あくまで全世界です。そこから現状を見れば…。
 「甲子園に出場するぞ」と言ってはいるが、部員は少なく、ヘボ選手しか集まらないチームの監督のようなもの。焦りを感じることはなかったでしょうか?
 私たちの教会はどうでしょう? キリストの福音は真理だ、と知っている。「世界大に広がっています」と言う。けれど、
 日本での影響力はあまりに小さい。「私はクリスチャンです」と言って、“つぶし”がきく場面などほとんどない。
 歯牙にもかけられていない。大きな風車を敵に見立てて突進したドン・キホーテのような感さえ致します。
 けれどもイエス様は焦っておられなかった。ご自分や弟子達が蒔いている
 種に生命があると知り、信じていたから。たとえ純金製の種の模型があっても、そこからは絶対に芽が出ません。しかし
 天の国は、今はどんなに小さく1㍉しかなくっても、内に生命を秘めているから、
 成長する。しかも、大きくなる、というのです(3、4㍍にもなるとか)。そして、空の鳥が枝に巣を作るほどになると! 正に「寄らば大樹の陰」です。
 欧米や、そして韓国など、キリスト教が「大きな木」のようになった国々では、もうかるビジネスの市場として“鳥”に巣を提供している様相が見受けられます
 (日本では、キリスト教専門の出版社など経営的に成り立たず、苦心惨憺して働きを進めていますが…)。しかし、
 キリスト教主義学校のような事業はどうでしょうか? その多くが現在、
 有名校となり経営的に成功しています。まさに、キリスト教のブランドのもとに鳥が巣を作ったという見方も成り立ちます。
 しかし、それらの学校は元来、宣教師や、熱心なキリスト者が、教会とつながりもある、キリストの働きとして、救霊をも視野に入れて設立したもの。
 信仰と、切なる祈り、それに裏打ちされた熱意ある業や献金によって、日本に教育機関が開始される。それなのに
 その多くが今、信仰や、地域教会との関係を失い、経営や偏差値のことばかり。
 行政に許認可権を握られて、信仰は抑圧され、この世的な価値観が横行しています(と言うと言い過ぎでしょうか)。
 それは、「空の鳥が巣を作る」ということだけでなく、下手をすると、
 2つ目の焦りの元、「良い種を蒔いたはずなのに悪い芽が生えてきた」ということになってしまうかも知れません。
 24節ではイエス様は、「天の国は、ある人が良い種を蒔いたようなもの」と喩えておられる。37節にその
 解き明かしがあるように、世界という畑に、神の良い種を蒔いた。そのはずなのに、
 畑に毒麦の芽が生えてきた(26節)。毒麦は、良い麦と似ているが、食べると食中毒を起こさせ、害になるものなのです。
 しかも、本物の良い麦と紛らわしい。それは、神の「敵」が毒麦の種を蒔いた結果です。しかもそれは、
 人々の眠っている間に。人は寝ないわけにはいかない。だから、毒麦発生は防ぎようがないんだ、という感じも致します。
 眠ってしまう人間たちに神の畑の管理を委ねていかなければならない。イエス様は焦りを感じなかったのでしょうか?
 イエスは、続けて教えて下さいます。神の下部たちは、「毒麦を今、抜きましょう」と進言する。しかし父なる神は、
「抜くな」とおっしゃる。 それは、毒麦と一緒に(良い、本物の)麦まで一緒に抜くといけないから」(29節)という。更に、
 終末の時に毒麦と良い麦はより分けられる。父なる神が、キチンとそうなさる、と。
 先ほど、キリスト教主義学校の悪口を申しました(笑)。しかし、その存続の意義は計り知れない。
 日本の社会に与えるキリスト教の存在感や信頼感。学問的な達成。自由を擁護する勢力として機能などなど。何より、
 神の目からどのようにご覧になっているかは、私たちに測り知れません。一人の人の心の奥底だって、神にしか分からない。
 毒麦が良い麦に変わることだってあるかも知れない。ですから、
 私たちの身近な働き、教会の中にさえ、毒麦を見る時に、焦らないでおきましょう。神に祈って、お任せしましょう。神は
 必ず決着をつけて下さる。それは神様の仕事です。私たちは、イエス様がなさったように、父なる神に祈り、願い、委ねて生きて参りましょう。

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