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なぜ神戸ルーテル神学校で1

20100415101035211
  • 2010年4月15日(木) 22:54 JST
  • 投稿者:
    三浦三千春
  • 閲覧件数
    547
 ご存知の方もあろうが、私、三浦三千春は40歳を超えてから神戸ルーテル神学校で学び、卒業した。
 出身の教派はルーテル教会ではなく「きよめ派」である。
 ではなぜ、ルーテル神学校に学んだのか。

 最も短く言うと、
 原点に帰って確認したかった。
 何を? 宗教改革とは何か、である。

 私は、クリスチャン新聞に15年奉職して、非常な悩みの中にあった。それは、プロテスタントの中における深刻な分裂、分派である。
 それが、当時の状況のなか、最も時代先鋭的なかたちで表れたのが、「甲子園ミッション」問題であった。甲子園ミッション推進派と反対派の対立は、ちょうど、それらの背景となる考え方(神学)のぶつかり合い、という様相を呈していた(そのことについては、後に改めて詳述したい)。
 この問題を含め、意見の異なる諸テーマについて、自分はどうのような立場を取るべきか、と主体的に悩んだのである。

 それは、出身教派で言う、いわゆる「きよめ」の問題についても同様であった。
 「きよめ派」において、いわゆる「瞬時的なきよめ」という「信仰的転機」があり、それを教理的にも保持することが正道であると主張されている。それは、「きよめ」と類似のことを解くケズィック運動の神学的主張とも異なるものだから、ケズィック運動とも協同はできない、とまで言うのである。
 しかし、クリ新という立場にいた私にとって、それは客観的な視点から見ると、そんなに大事に主張するほどの問題なのかと思ってしまったわけである。

 悪いけれども、カリスマ・ペンテコステ派の中でたたかわされる、「聖霊のバプテスマには異言が必ず伴うか、伴わなくても良いか」というテーマと、同じレベルの問題だと私は思う。
 もちろん、議論があることで、本質の把握が深まるのだから、意見の相違は結構である。しかし、それのもたらす作用が、この異教国日本にあって、大所での協力もできない、コミュニケーションさえできない、というものであったとしたらどうだろう。主は喜ばれるのだろうか?
 生き方の問題として、主張に対する安易な妥協はせず、自らの信じるところを行くことは、限界ある地上の生涯にあって摂理にかない、尊いことであろう。
 しかし、私の観察するところ、その信念が、「自分の先生、先輩に言われたとおり」を墨守する、ということが、かたちにおいてそれを守ることにのみ終始して、自らの生き方としてそれを深めるとか、理解し直すと言うことがなく、ただ停滞に陥っているケースが数多いように見受けらてならない。
 その体質が、日本の教会の停滞に直結している、というのが私の意見である。

 それでは、自らはどう進むか。それが大問題となる。
続 く

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