カンカラ三線の悲しい歴史

201004091020
  • 2010年4月 9日(金) 07:52 JST
  • 投稿者:
    三浦三千春
  • 閲覧件数
    430
 昨日の「カンカラ三線を買った」から続き。
 本土の邦楽や三味線のように敷居が高くなく、気軽にとっかかれ、古来の文化を味わえるカンカラ三線だが、その発端には悲しい歴史があった。

 それは第二次世界大戦のこと。
 本土防衛の“盾”となるという名目で、大日本帝国、軍による現実味のない戦争政策の最極限のしわ寄せを、多くの無辜の男女の生命が最も無惨なかたちで失われるというかたちで被った沖縄。
 戦後も、米軍の収容所で暮らすことを余儀なくされた(今も米軍基地に取り囲まれて暮らしている)。

 そのなかで、生きていく「心の拠り所」として生まれてきたカンカラ三線であると思う。
 家も家財も焼き払われ、もちろん、家族で一族で、それを愉しんできた三線も失われてしまった。
 しかし、自由に歌が歌える環境になって、誰が始めたことなのか、手頃な木材を棹、糸巻きに加工し、そこに、米軍から支給された食糧の入った缶を組み合わせ、糸(弦)はパラシュートのそれであったそうだ。
 そこで奏でる民謡や古謡――死んでしまったあの人もこの人も一緒に歌った――は、どんな響きを沖縄の人々の心にもたらしたのだろうか?

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