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阪神大震災の時、与えられたみことば

  • 2011年4月26日(火) 21:33 JST
  • 投稿者:
    三浦三千春
  • 閲覧件数
    1,925
 阪神大震災発生の3日後(だったと思う)、私は森田さんの車に同乗して神戸に向かい、神戸ルーテル神学校(KLTS)が救援本部になるきっかけとなった(私がKLTSの学生となるのは、更にその5年後のことである)。
 周囲の状況だけでなく、自らの内面も騒然としていた。
 KLTSの木造の教室に泊まっていて、夜(だったと思う)、聖書のみことばが与えられた。それは、聖書の箇所(書名と章節の数字)が頭に明瞭に浮かんだのだ(聖書箇所だけが示されるという経験は後にも先にもこの時だけだ)。
 出エジプト記の最初の方であったことだけは頭の隅にずっと覚えていた。しかし、そういうみことばが与えられる状況が自分にとって都合が悪いとばかりに、それを意識の下に押し沈めてきた。ところがもう一度、そのみことばが意識に登ってきた。

 95年以来、いろんなことがあった。KGKで知り合った畏友、池間君が混乱の中で亡くなった。15年勤めたクリスチャン新聞を辞めた。KLTSで学び、卒業した。紆余曲折あって近畿ルーテル教会に就職し、桜井の教会に補教師として奉職したが、心ならずも辞めることになった。それからでも4年が経ってしまった。その間にも、一歩間違えば自分が死ぬか、人を殺すことになった交通事故に遭ったりした。
 いま、初めて記すが、実は、95年から約10年、ほとんど心の病に近い状況にあった。これを記すのは、今でもためらわれるが敢えて記す。主よ守りたまえ。それは、自分が心の中で思ったことや考えていることが、他の人々に読みとられてしまう、という感覚に捉えられていた。「サトラレ」という映画があったが、正に自分がそれであるという恐怖である。
 もちろん、理性によってそれをうち消す。しかし、その恐怖から逃れられなかった。テレビの生放送を見ていて、「今、自分が言ったことに反応して、ブラウン管の向こうの人たちがこんなことを言った」という具合の恐怖を味わった。なぜ、恐怖になるのか。それは自分はろくでもないことしか考えないからだ。だから、極力、都合の悪いことを考えないように押さえつけてきた。
 震災発生直後のKLTSの構内で夜、明瞭にみことばが与えられたことについても、その事実自体を抑圧してきた。そのみことばは出エジプト3・12であった(と思う)。
 「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」確か、このみことばであったと思う。
 出エジプトであったのは確かと思うし、モーセ物語の最初の方であった。書名と章節の数字だけが明確に浮かんで、KLTS構内でそこを開いて確認したという事実だけは覚えている。その時に、その場所で「聖餐式をしなければいけない」と思った(その直後に、私がそう思ったことを悟った方たちがやって来られた)ことを思い出すので、そこで間違いないと思う。
 実は、今所属している教会の聖書日課が出エジプトである。加古川に戻った最初期の聖書日課も出エジプトで、今は2巡目になる。4年前は、3・3が心にとまった。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
 そして、母方の祖母が亡くなった。私たちが桜井にいる間に、加古川の娘のところに身を寄せ同居するようになっていた。脳梗塞を患って言葉をしゃべることができなくなった後に、私たちが戻って、二世帯住宅の同じ屋根の下に住むようになった。
 最後の1年余は病院で過ごし、この20日に召された。その日の聖書箇所が出エジプト3章であったのである。
 祖母は戦前からのクリスチャンである。祖父もホーリネス教会で信仰を持ち、熱心派であった。戦後は姉たち(私から言うと大叔母)の影響で無教会で過ごしていた。祖父の死後、母は教会に行きキリストを信じた。その後、自分の母(祖母)も教会生活に戻って欲しいと願い、そのころ、加古川市民クリスマスの講師として来られた正木牧師に出会い、祖母は北大阪ルーテル教会でお世話になることになった。
 祖父の召天10周年の記念会を北大阪でしていただいたとき、祖父の姉たちも集い、熱心なクリスチャンとして弟の信仰の証しを語った。その姉たちは救霊の情熱が熱かった。親族で病になったものがあると泊まり込みで看護し、そのなかでキリストの福音を伝え、信仰告白に至るというパッションに生き抜いた方たちである。祖母はどちらかというと(熱心派の夫のために苦労させられたこともあって)「世的」というか、そんなに信仰熱心な方ではなく、しかし、だからこそ、ふつうの日本人の庶民の(また貧乏人の)行き方だったのだが、祖父たちの世代の最後の人として、旅立ってしまったわけである。
 その日の教会の聖書日課が出エジプト3章であったわけだ。
 私にとっては、95年以来16年の時を隔てて、いやそれだけではなく、明治時代からプロテスタントが日本で展開してきて、その巡りがぐるーっと回って、戻ってきたような思いがしている。
 それもきわめて冷静に、知的に考えればそういうことになるな、という感覚で、この事実を受け止めることができるのは感謝である。そして、この指し示しは、私の人生のこの後の歩みを大きく指し示しているはずである。なぜなら、そのことを私はずっと祈り求めているのだから。その解き明かしは、今後自ずとなされていくことと思う。思い巡らしの中で、また起こってくる出来事を通して。
 今の思い巡らしはこうである。「この山」とは「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」という信仰の山であると思い巡らしている(組織としてのルーテル教会ではあり得ない)。
 「サトラレ」的なおそれはほぼ払拭したし、癒される方向に向かう助けとなる出会いや経験が与えられた近年の出会いは大きな感謝である。神の愛されている自分をいよいよ自覚し、自らを肯定し励ます中で、再び出エジプト3・12を受け止めているのである。

コメント

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  • 阪神大震災の時、与えられたみことば
  • 投稿者:n7it2u on 2011年5月 1日(日) 00:27 JST
そのような10年があったのですね。当時の私にはまったくわかりませんでした。
少なくとも日本橋で人形浄瑠璃を見た時などわかりませんでした。

この記事は3部に分けた方がわかりやすいかもしれませんね。
さて、何は無くても今ある自分を感謝して、そこからの出発なのでしょう。過去でも未来でもなく今日そして究極的な意味における「だいじょうぶ」という確信(つまり平安)。

And God said, “I will be with you. And this will be the sign to you that it is I who have sent you: When you have brought the people out of Egypt, you will worship God on this mountain.”
  • 文楽観に行ったっけ
  • 投稿者:三浦三千春 on 2011年5月 2日(月) 09:45 JST
 ありがとう。大阪・文楽劇場に一緒に行ったのは何時のことでしたっけ。時間の経つのは早いものです
 心の病の状況って、職場などに知れると決して有利ではないだろうし、という思いもずっとありました。あるいは、医者に行ったら、医者にも騙されるのではないか、という不安もありました。
 しかし、世の中に存在する様々な悩みや痛みに比べたら、全く何のことはない程度のものであっただろうことを思います。一方、つい今しがた述べたような、自分の痛みを素直に受け入れないことが問題を深めていくことも分かりました。どんな小さい悩みでも、自分にとっては重要なのだ。そうでないと解決がないですね。

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